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リキトさんの動画で初めて知った任那復興会議。こんなに詳しく聞けて貴重です!!ありがとうございます😊
わかりやすい。 お話も聴きやすかったです。ありがとうございます。
最高に面白い。続きが楽しみです。
理解しやすかったです。どうしてもこれまでの流れから偏見を持っていました。溶けます。
偏見がすくなく、わかりやすくて、すごくよくまとまっているので、このシリーズ好きです。続きが楽しみです。
待っておりました!!🫶細かくわかりやすく勉強になります🫡
今回も面白く、ためになりました。色々な地名が出てきますが、地図で示していただけたのでわかりやすかったです。
面白〜!遂に時代が来た!って感じです。
楽しみに待ってました!
背景事情大変分かりやすく感銘です。
継体天皇がやたらアッサリと任那4郡を百済に割譲している、家臣達から反対が出ていても押し切る形で(強い意志で)実現しているのが気になります。また狗耶韓国は倭人の国と三国志魏書東夷伝にありますので、東漢氏や秦氏のような人達はこれまで渡来系と言われてきましたが、もしかしたら故国(倭国)に逃げ帰った状態だったのかもしれません。
渡来系氏族って、古くからいる土着豪族に比べて官位も低かったし、故国といっても線引きはあったと思う 現代でもそうやけど、移民ってやっぱ立場弱い
@@RR-pm8ie 朝鮮戦争からバックレてきた韓国の指名手配たちは、現在の日本で様々な会社で管理職をやっていますよ。乗っ取られそうです。古墳時代等では義務教育が無かったため、乗っ取りはなかったと思われますが。
@@RR-pm8ie 相変わらず嫌韓活動してますね、頑張ってください😂
ヤマト人は日本人?それはそうですね、でもねヤマト人は日本人以前には韓国人でした、何故日本は21世紀の最先端時代になったにもかかわらず歴史を捏造してるのか、日本は未開人の国ですか?韓国は2000年間属国だとネトウヨ等が普通にいってますが、じゃ天皇の出自は属国の末裔?😢😢😢
継体天皇が任那4郡を百済に割譲した?根拠は?違いますね、継体天皇は百済王ですよ、欽明天皇も百済の聖明王にことでした、倭の五王である讃珍済興武は百済王です、書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
歴史における韓国の立場はこうです。中国:韓国は中国から始まった。日本:韓国は日本から始まった。韓国:??(お互いに主張し合うから反発心が出る。)
わかりやすい。込み入った事情を地図と資料とイラストを駆使して、実に簡明に解説している。お見事。戦後10年生まれですが、私たちの世代は馬韓・弁韓・辰韓、百済・任那・新羅・高句麗という地名・国名を小学校で学びました。先生が全紙大の紙に地図を描き、地名・国名を書き入れて教室の壁に貼ってくれたので、よく覚えています。この知識は中学、高校の歴史の授業で上書きされることなく今に至りました。このころの日本は本当に大変だったんですね。まだ統一できていない。国家という体制が整っておらず、まさに戦国時代。そのうえ海を隔てた朝鮮半島の国々とも権益を争わなければならない。権益というより、中国の文化を吸収する窓口として朝鮮半島は大切だった。そしてアカホヤ噴火で縄文人が開墾し、少なからぬ日系移民が居住し本土との深い交流がある。こちらでも争いがあり、あちらでも争いがある。しかもみつどもえ、よつどもえの。それでもこのような争いと混乱の中で、百済の王様が伝え贈ってくれた仏教の文物が、しっかり宝物として今に伝えられていることは、日本人としてうれしい。受け入れるか否かで大騒動が起きてはいるものの、仏教は上級貴族から庶民に普及していく中で、日本風にアレンジされ人々の心の支えとなっていく。お葬式でお経が唱えられても、その意味は全く分からない。聖書のようなわかりやすい物語ではない。それでもスペインやポルトガルの宣教師の布教に疑問・反論していくだけの理解の深まりがあったことに驚く。その始まりがこの混乱の時代にあったとは。稲作もどこからかやってきた。発祥は中国らしい。しかし稲の名前はジャポニカ米でチャイニーズ米とは呼ばれない。統一後の大和朝廷が税収の基盤としたのも米で戸籍制度と口分田を始める。日本人のコメに注ぐ情熱は発祥地の中国や経由地とされる朝鮮半島の熱量の比ではない。官民挙げて増産・改良に邁進し、他民族を奴隷化することなく自前で調達してきた。私自身は下戸でそれは弥生系の遺伝子らしいが、渡来人の子孫とは思いたくない。渡来人の知識を受け入れつつ進化してきた生粋の縄文人と思いたい。渡来人はほとんどが僧や技術者や高位高官で優秀な人たちだったとしても、平凡な縄文人でいい。みんなでレベルアップしてきた中流の縄文人でいい。今日のこの番組を見ていろいろ思いを馳せてしまった。壮大なドラマだった。
百済本紀などからですか? こんな精密な歴史絵図、初めてで、とても楽しませてもらいました。
24:43 大勢は" たいせい" と読みます
よく理解出来ました。
日本史 27 以降を出してちょうだい‼️
今のソウルが昔の百済の都、今の釜山が昔の加羅でした。今は田舎である慶州が昔の新羅の都、北朝鮮の平壌が昔の高句麗の都でした😊
부산은 동쪽은 신라 였고 서쪽은 가야 였음 신라와 가야는 언어와 풍속이 비슷했고 전라도 지역과 백제는 전혀 달랐음
この内容の深さも全然知らんし、歴史も全然知らん朝鮮人の一匹が幼児位の日本語でよう喋っとる。内容もマジ百済ない。
韓流歴史ドラマの「スベクヒャン」が面白かったので(ヒロインの扱いがヒドいですw)、加耶の名前には聞き覚えがありました。歴史解説を拝見することで、理解度が上がり楽しいです。
ガヤ語って日琉語族の言語だったらしいね縄文22%の人骨も出土してますね
後編がまた半年後とかだとつらい
お仕事が忙しいのかな?のんびり待ちましょう。
6:13 日本書紀によれば、任那は北が海に阻まれているとかいてあるので、朝鮮半島南とみるのは無理があるのではないでしょうか。「任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南」
「任那者、去筑紫國、二千餘里、北阻海以在鶏林之西南」(天理本)「任那は、筑紫を去ること二千余里、北のかた海をへだてて鶏林(新羅)の西南にあり。」と読むのが自然と思います。3冊(中央公論社、岩波、講談社)見た訳本もそのように訳しています。漢辞海でも、「阻」に②通行を拒む山や川が間にある。「へだてる」。とあります。また、天理本にも「カタ へタテ」とかなが振ってあります。なので、この文では、筑紫から任那は、北の方で、海に隔てられ、新羅の西南としか読みようがないと思いますが。
@@buluemoon2008 ありがとうございます。ただ「北のかた海をへだてて」を文章の前半の「筑紫から」と繋げて「北の方で、海に隔てられ」と解釈するのは、同じく可能性の一つではあるでしょうけれど、多少の飛躍を感じます。
「筑紫から任那は二千余里。北の方が海に隔てられ、新羅の西南」という解釈の方が漢文として自然に感じます。
漢文の原文で書くと読点がなく「任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鶏林之西南」です。これに、平安の注釈者が「北」の前に読点をいれてしまったために、そうとられているのでしょうが、本来は、「任那者、去筑紫國、二千餘里北阻海、以在鶏林之西南」でないと、筑紫からどの方向に二千餘里行くのか書いてないことになります。本来なら「任那者去筑紫國北阻海二千餘里」と読むのでしょう。「任那は筑紫を去ること、北へ海を阻てて二千里あまり。」この文の著者は、筑紫からの任那の位置を説明しているので、筑紫からの任那の方角を書かずに、任那のどの方角が海に面しているかを書く理由はないです。位置情報は「女王國東渡海千餘里」と同じで、始点からの方向と距離が必要です。
@@buluemoon2008 > 筑紫からどの方向に二千餘里行く、始点からの方向と距離が必要新羅の西南、と書いてある時点で方角は既に示されています。
神功皇后の三韓征伐は百済、新羅、高句麗と思っている人がいますが、辰韓、馬韓、弁韓の頃なので、紀元前1世紀から2世紀のことかもしれない。(私の妄想です)
(22:30)清寧 顕宗 仁賢 武烈 の天皇たちが『明らかに後世に創作された人物とされている』これちょっと初耳ですが。そこまで決定的なんでしょうか?
そうですね創作だと言う学説があるという程度のはずです。明らかにというのは偏見ですね欠史八代と同様に意図的な物を感じますね。この4人の天皇の墓の位置は記載があるんですよ、そして墓も存在する。天皇の墓ですよ前方後円墳でそれなりの大きさがあります。創作した天皇の墓にそれだけの労力をかけますかね?それも4人も・・・・現在の学者は記載が少ないものはいなかったことにし、証拠がないからと仁徳天皇陵も名前を変えた。聖徳太子ですら教科書では名前が変わっている。(今はもどってるのかな?)初代神武天皇でさえ、神話の人物だと言っていた時代がありますから、今でも教科書に神話は入れるべきでないと言う人もいます。天孫降臨とかは別にして、神武天皇は実在していますからね。 そうしないと魏志倭人伝、日本書記、古事記などの整合性がなくなります。邪馬台国は存在すると言ってるのに、神武天皇はいないと言うのは遺跡などから考えるとありえないんですよ。日本書記と古事記には卑弥呼は登場しない、当然ですよ勢力が違うんですから。邪馬台国九州説だと全てに辻褄が合うんです。考古学的にもね^^ruclips.net/video/hMDQ5qjoKuI/видео.htmlruclips.net/video/xYHAUFidIe0/видео.htmlこの二つの動画を観てください。 全て正しいとは思いませんが参考にはなると思いますよ。この動画には関係ありませんが学者というものは答えありきか否定から研究をしてるように思う代表的なことです。
朝鮮の前は高麗です。高麗の前は高句麗です。高句麗は中国の魏の楽浪郡から別れた国家です。魏の楽浪郡は魏の一地方でしたので、楽浪郡の王は曹操と曹丕です。そうあの三国志の魏の曹操です。ですので、高句麗となる直前の楽浪郡時代の王は中国の魏の曹操や曹丕ということです。
@@japansafer6861 それ何か関係あります?
@@yukizokin 日本の文化遺産に便乗してこないように、しっかりと大陸の方の流れも日本人として把握しておく必要があります。
分かりやすいお話し有り難うございます。「先進文化」のところは不同意ですが。
ソウルから南西に五世紀末に14基の古墳を北九州の王が作っていますその件もお願いします。
韓国にある前方後円墳ですよねたしか前方後円墳は大和朝廷の支配領域に建てられてたと思います
任那日本部説は日韓共同研究で2010年無しになりました。
百済の先進文化が果たして何なのか具体的に見えてきません。
倭国と大和国は別の国だったと思う。倭国は九州と朝鮮南部の国で、大和は本州、四国あたりの国。明時代に作られた中国の地図には九州を倭 本州を日本 って書いてあったと思います
倭国と邪馬台(大和)国を敢えてわけて書いてる点も疑問ですね。ヤマトは奈良盆地にあった王朝で、九州にあった倭国を併合したと考えるのが自然だと思います。倭へ与えられた金印が北九州で見つかったことや、奈良が古代よりヤマト国と呼ばれていたことも有力な情報ですね。倭よりも東側に位置するヤマト国が日本と名乗るのも辻褄が合いますし。
陸の上の国境と言うのが日本人には分からないと言うのがよく分かった。
可哀想な北の国民❕援助しても、搾取されるだけで末端まで行かない!この世の地獄を解放出来るのだろうか?
仮に😅金官伽耶国の王が中臣氏なら、藤原氏が日本の中枢に影響力を及ぼしてある意味乗っ取ろうとしたのは、意趣返しだったのかも知れない😭🙏
宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊らは述べている。西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。 額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。
↑こいつの主張って、日韓の学会でも相手にされていなくて、結局主張派にもなれていないんだよね
高野新笠なんて、武寧王から8代、200年も隔たりあって、ずっと日本で日本人として混血してて、そりゃもう日本人だよ。仮にちょんまげの時代に一人か二人外人の血が入ってたとしても、そんなの日本人だろ?
一つの疑問がある。8世紀9世紀の遣唐使の時代でさえ海を渡るのは命懸けだった。数隻の船を出し、そのうちの何隻かが海を渡ることが出来たらよしとしていたと。そのもっと古い400年前に軍勢など送ることが出来たのか?「権益」という言葉を盛んに使っておられるが、「権益」とは近代以降における概念で古代にそのような概念が存在したかというのは大いに疑問である。まだ国家というものが確立していなかった古代においては、いかにも不釣り合いな言葉だと思うのだが。
古代から大陸半島とは頻繁に往来があった事は文献史跡から明白です
半島への航海はそんなに危険じゃないでしょ。半島避けて隋唐に渡ろうとするから命懸けになった。
遣唐使は正月の朝賀の儀式に間に合うように日本を出たので、台風のような暴風雨にあう機会が多かった。しかし、季節を選べば安全だったと思います。また、三国志の時代、遼東半島の公孫氏は呉に大軍の派遣を要請しているので、東シナ海は普通に航行できたと思います。呉の滅亡時(280年)は5000隻の船があったとされます。それに、最近のDNA解析をみると、古墳時代のはじめには、中国本土から畿内へ数万から数十万単位の人が日本にやってきたと思われます。(たぶん呉の滅亡時に。)これだけの数の人が、丸木舟でやってきたわけではないでしょうから、乗ってきた船の技術も伝わったでしょう。
畿内&奈良平野→百済系渡来氏族→ヤマト政権中心。北部九州→新羅系渡来氏族→倭の五王応神天皇、磐井の反乱、天武天皇。北関東→高句麗系渡来氏族→騎馬武人。
新羅→出雲系 昔脱解は但馬出身加羅→大和系百済→扶余系 定住化した元騎馬民族。大和に服属し、先進農法を学ぶ。前方後円墳はその証拠。水田開拓残土を古墳に利用。倭人と混血。渡来人→出戻り倭人。
くたらき を 和訳
百済が、大和政権に任那の割譲を要請したことから、任那は日本の植民地だったのですね。
資料が無いと言うことなのでよく分からんけど、近畿中央政権時代でも、九州地域と同様な対応など、朝鮮半島とも交流があったのでしょう。 例えば、韓国の学者が唱える日本国の文化は、全て朝鮮半島から来た、と云う。 しかし、日本国に点在する前方後円墳は、朝鮮には一つしかなく、それも日本国からの伝承と、現在では、云われてますよね。 何処の他国にも存在しない前方後円墳、文化の伝承は本当に全て、大陸から来たのでしょうか。 疑問です。
倭と大和は別種。大和を構成するのは扶余(扶餘)氏…倭国王統の構成は天(阿海)の三族…金氏、昔氏、朴氏…扶余は馬韓(箕子)を追いやり百済王になり、辰韓王統も百済が攻略し17代目から扶余にすり替わり弁韓の金氏は倭の宗主として移住し筑紫君になります。
この時代畿内にヤマト政権が強大であったと云う根拠ありますか。倭の五王は北部九州筑紫(後の筑紫君磐井)ではないのですか。ヤマト政権内のゴタゴタの時期に宋へ朝貢などできなかったのではないですか。
倭の五王は百済王ですよ宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
先進先進と連呼してるように聞こえたがどういう部分が先進だったのか気になるな。任那に橋頭堡がある倭国に対してどれだけ先進だったのか。任那と百済でそれほど違いがあったのか。当時の仏教だけを持って先進って言うのは言い過ぎではないのかな。
日本と朝鮮半島の話しになると必ず、朝鮮半島が日本に対して経済・文化的に優位だったということを認めたくない人が現れるな。動画ろくに見てないでしょ。仏教だけをもって先進的なんて言ってないんだけど。
今はそうだけど、昔は違った。
当事の仏教はただの宗教ではない。今でいう科学体系全般。最新物理学であり、最新化学。大和は暖かく、水田稲作適合地で人口が桁違い。健康な男児の数が違い軍事的には半島を圧倒していた。その力量は前方後円墳の巨大さから明白。凄まじい労働人口。寒冷な当事の世界でトップレベルの豊かさだった。江戸時代は世界人口の10人に一人は日本人だったというが、おそらく当事も世界人口の10人に一人は倭人っていうレベルだったと思う。でも知的文化レベル、特に科学体系では劣っていたと思う。江戸がヨーロッパより遅れていたように。
この時代の人口比は簡単には決めつけられない。半島は土地が痩せ気味で森林の再生力が弱く、縄文中期〜後期の遺構がほとんど出てこないほど人口が減ったのは確かだが、灌漑技術が未熟な状態では稲作には大きな谷筋を持つ半島の方が適していたかもしれない。ただ採集などもしていたので、倭国の方が人口的優位から軍事力優位があったと思われる。(その後、鉄生産の拡大で半島は禿げ山だらけになり保水力低下)ゲノム革命(ミトコンドリアDNA分析から核DNA分析の時代になった)により、日本人は縄文人と弥生人の二重構造では無くプラス古墳時代の大量流入による三重構造(縄文人20%、弥生人30%、古墳時代50%)だという事が分かった。不思議なのは、半島や漢民族とはDNA的に遠い事。古墳時代に流入した民族は他では駆逐された事になる。どこから来たのか?駆逐される程の史実を裏付ける資料は?鉄の生産が盛んになると半島は禿げ山だらけになり日本への移住が進むけれども、それだけでは説明出来ない。
>不思議なのは、半島や漢民族とはDNA的に遠い事。>古墳時代に流入した民族は他では駆逐された事になる。この古墳時代の渡来人は中国本土南部の東アジアのDNAに近い。逆に、弥生時代の渡来人は北東アジアの人と近い。古墳時代の渡来人と混血した人の日本における分布をみると、畿内が一番濃く、そこから地方に広がっている。したがって、古墳時代の渡来人は中国南部から(たぶん呉の滅亡(280)で)黒潮に乗って来て直接畿内に流入した人々。弥生系の血が濃い人は、畿内の勢力でない九州と東北方面に残った。なので、古墳時代の渡来人が九州や朝鮮にいないのは、朝鮮経由で入っていないだけで、駆逐されたわけではない。4世紀になると、この混血した畿内の人々が、北九州の勢力を吸収し、鉄を求めて朝鮮に乗り出していく。沖之島の祭祀がはじまったのもこのころ。また、古墳人(古墳時代の渡来人)の日本における分布は、纏向の地方系土器の分布と重なる。(九州の土器は纏向ではほぼ出ていない) 初めに九州に亡命しなかったのは、九州は魏(晋)と同盟状態だったから。
この辺は歴史と考えるより8世紀に創られた神話だと思ってた方がいいな、どこまでが事実なのか判別が付かない。
その通り、精度を上げるなら現代の半島韓国系統を観察する事かな?半島を持ち上げる説が出てきても嘘のがすぐ分かる。
왜 쿠다라어 연구 어근 연구가 필요하다. 전라도 사투리 카사이벤, 황해 지중해 정복왕 로마쿠다라 제국 라틴어 쿠다라어 어디에. 있나 남았나 사라졌나?
倭国という言い方自体がシナ朝鮮から見た蔑称でしかない。大陸の先進文化というのもすでに事実誤認ではないですかね。
代替の国名がないから仕方ないんじゃないかヤマトと同じ国かはわからんし大陸の先進文化が事実誤認というのはどういう意味?
歴史知らない?
3世紀ごろに三韓があった?違いますね、この時期三韓は既に百済、新羅、伽耶によってそれぞれ吸収されたんですけど、なんか勘違いしてますかね、
定義によるとおもいますが、Wiki によれば三韓はそれぞれ3世紀まで。弁韓辰韓馬韓それぞれでは4世紀にかけて存在したとなっています。帝国書院の「中学生の歴史」でも、3-4世紀ごろ高句麗が朝鮮半島北部に広がり、南部の小国がまとまり百済新羅が成立とあるので問題ないのでは。
高句麗は朝鮮半島も支配しているのと、あとから来た日本が支配する任那は朝鮮の国に含まれるかはっきりしないので朝鮮の国は3カ国だから3カ国に分断された朝鮮を略して三韓じゃないんですか?あまり詳しくないのですが知識をつけるために聞いてみました。
見てきたんけ?
百済、新羅、伽耶は4世紀ですよ🧐
無知過ぎ😭😭
2세기경 고대대한민국 가야 백제인이 일본에 건너가 일본건국! 고대가야 백제유적이 일본의 고대고분에 있슴에 일본건국설의 증명자료이죠 ...
何を言っても、百済は日本に吸収され新羅は滅びた。高麗朝鮮は中華の国で、半数の一般人は奴隷土着人。
任那日本府は無いと思うけど
ある!と思います
あったと言われていますね、ただその役割に諸説あると言うことです。 伽耶を治めていたと言う説と出先機関(大使館)というようなものがあります。他にも色々説はあります。任那日本府と正確に出てくるのは新羅の史書だけですけど。他は違う呼び名ですね。
朝鮮半島南部に倭人の基盤があったことは事実ですが、多分ヤマト側にも百済側にも属して無いんじゃ無いですかね その背景を朝廷が利用して、後から物語を作ったんじゃ無いかなぁ
@@RR-pm8ie てかさぁ任那日本府やら百済やらどうたらこうたらは置いといてかなり友好的な関係だったのは間違いないと思うんだよね1番近い外国
@@mm-lg7wq それは間違いないですね 鉄資源確保とか、百済新羅との外交などで、伽耶はめちゃくちゃ重要な場所だったと思います。
別に半島勉強せんでも😅
@@japansafer6861 別に半島勉強せんでも…😮💨
일본왕가의 고향은 경상남도 김해시 과거 금관가야 임나라 불러던 곳이다 구지봉이라는 곳이 금관가야 와 6가야 왕이 강림한 곳이다규슈에도 구지후루다케 가 있다고 들었다 일본왕가는 가야인이다
新羅の3王系朴氏・昔氏・金氏のうち、昔氏の始祖伝説では倭国の女王が卵を産んでそこから生まれた。朴氏は生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がありますね😊
リキトさんの動画で初めて知った
任那復興会議。
こんなに詳しく聞けて貴重です!!
ありがとうございます😊
わかりやすい。 お話も聴きやすかったです。ありがとうございます。
最高に面白い。続きが楽しみです。
理解しやすかったです。どうしてもこれまでの流れから偏見を持っていました。溶けます。
偏見がすくなく、わかりやすくて、すごくよくまとまっているので、このシリーズ好きです。続きが楽しみです。
待っておりました!!🫶
細かくわかりやすく勉強になります🫡
今回も面白く、ためになりました。色々な地名が出てきますが、地図で示していただけたのでわかりやすかったです。
面白〜!
遂に時代が来た!って感じです。
楽しみに待ってました!
背景事情大変分かりやすく感銘です。
継体天皇がやたらアッサリと任那4郡を百済に割譲している、家臣達から反対が出ていても押し切る形で(強い意志で)実現しているのが気になります。また狗耶韓国は倭人の国と三国志魏書東夷伝にありますので、東漢氏や秦氏のような人達はこれまで渡来系と言われてきましたが、もしかしたら故国(倭国)に逃げ帰った状態だったのかもしれません。
渡来系氏族って、古くからいる土着豪族に比べて官位も低かったし、故国といっても線引きはあったと思う 現代でもそうやけど、移民ってやっぱ立場弱い
@@RR-pm8ie 朝鮮戦争からバックレてきた韓国の指名手配たちは、現在の日本で様々な会社で管理職をやっていますよ。乗っ取られそうです。古墳時代等では義務教育が無かったため、乗っ取りはなかったと思われますが。
@@RR-pm8ie 相変わらず嫌韓活動してますね、頑張ってください😂
ヤマト人は日本人?それはそうですね、でもねヤマト人は日本人以前には韓国人でした、何故日本は21世紀の最先端時代になったにもかかわらず歴史を捏造してるのか、日本は未開人の国ですか?韓国は2000年間属国だとネトウヨ等が普通にいってますが、じゃ天皇の出自は属国の末裔?😢😢😢
継体天皇が任那4郡を百済に割譲した?根拠は?違いますね、継体天皇は百済王ですよ、欽明天皇も百済の聖明王にことでした、倭の五王である讃珍済興武は百済王です、
書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]
「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]
「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]
「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]
「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
歴史における韓国の立場はこうです。
中国:韓国は中国から始まった。
日本:韓国は日本から始まった。
韓国:??(お互いに主張し合うから反発心が出る。)
わかりやすい。込み入った事情を地図と資料とイラストを駆使して、実に簡明に解説している。お見事。
戦後10年生まれですが、私たちの世代は馬韓・弁韓・辰韓、百済・任那・新羅・高句麗という地名・国名を小学校で学びました。先生が全紙大の紙に地図を描き、地名・国名を書き入れて教室の壁に貼ってくれたので、よく覚えています。この知識は中学、高校の歴史の授業で上書きされることなく今に至りました。
このころの日本は本当に大変だったんですね。まだ統一できていない。国家という体制が整っておらず、まさに戦国時代。そのうえ海を隔てた朝鮮半島の国々とも権益を争わなければならない。権益というより、中国の文化を吸収する窓口として朝鮮半島は大切だった。そしてアカホヤ噴火で縄文人が開墾し、少なからぬ日系移民が居住し本土との深い交流がある。こちらでも争いがあり、あちらでも争いがある。しかもみつどもえ、よつどもえの。
それでもこのような争いと混乱の中で、百済の王様が伝え贈ってくれた仏教の文物が、しっかり宝物として今に伝えられていることは、日本人としてうれしい。受け入れるか否かで大騒動が起きてはいるものの、仏教は上級貴族から庶民に普及していく中で、日本風にアレンジされ人々の心の支えとなっていく。お葬式でお経が唱えられても、その意味は全く分からない。聖書のようなわかりやすい物語ではない。それでもスペインやポルトガルの宣教師の布教に疑問・反論していくだけの理解の深まりがあったことに驚く。その始まりがこの混乱の時代にあったとは。
稲作もどこからかやってきた。発祥は中国らしい。しかし稲の名前はジャポニカ米でチャイニーズ米とは呼ばれない。統一後の大和朝廷が税収の基盤としたのも米で戸籍制度と口分田を始める。日本人のコメに注ぐ情熱は発祥地の中国や経由地とされる朝鮮半島の熱量の比ではない。官民挙げて増産・改良に邁進し、他民族を奴隷化することなく自前で調達してきた。
私自身は下戸でそれは弥生系の遺伝子らしいが、渡来人の子孫とは思いたくない。渡来人の知識を受け入れつつ進化してきた生粋の縄文人と思いたい。渡来人はほとんどが僧や技術者や高位高官で優秀な人たちだったとしても、平凡な縄文人でいい。みんなでレベルアップしてきた中流の縄文人でいい。今日のこの番組を見ていろいろ思いを馳せてしまった。壮大なドラマだった。
百済本紀などからですか? こんな精密な歴史絵図、初めてで、とても楽しませてもらいました。
24:43 大勢は" たいせい" と読みます
よく理解出来ました。
日本史 27 以降を出してちょうだい‼️
今のソウルが昔の百済の都、今の釜山が昔の加羅でした。今は田舎である慶州が昔の新羅の都、北朝鮮の平壌が昔の高句麗の都でした😊
부산은 동쪽은 신라 였고 서쪽은 가야 였음 신라와 가야는 언어와 풍속이 비슷했고
전라도 지역과 백제는 전혀 달랐음
この内容の深さも全然知らんし、歴史も全然知らん朝鮮人の一匹が幼児位の日本語でよう喋っとる。
内容もマジ百済ない。
韓流歴史ドラマの「スベクヒャン」が面白かったので(ヒロインの扱いがヒドいですw)、加耶の名前には聞き覚えがありました。歴史解説を拝見することで、理解度が上がり楽しいです。
ガヤ語って日琉語族の言語だったらしいね
縄文22%の人骨も出土してますね
後編がまた半年後とかだとつらい
お仕事が忙しいのかな?
のんびり待ちましょう。
6:13 日本書紀によれば、任那は北が海に阻まれているとかいてあるので、
朝鮮半島南とみるのは無理があるのではないでしょうか。
「任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南」
「任那者、去筑紫國、二千餘里、北阻海以在鶏林之西南」(天理本)
「任那は、筑紫を去ること二千余里、北のかた海をへだてて鶏林(新羅)の西南にあり。」と読むのが自然と思います。3冊(中央公論社、岩波、講談社)見た訳本もそのように訳しています。漢辞海でも、「阻」に②通行を拒む山や川が間にある。「へだてる」。とあります。また、天理本にも「カタ へタテ」とかなが振ってあります。
なので、この文では、筑紫から任那は、北の方で、海に隔てられ、新羅の西南としか読みようがないと思いますが。
@@buluemoon2008 ありがとうございます。ただ「北のかた海をへだてて」を文章の前半の「筑紫から」と繋げて「北の方で、海に隔てられ」と解釈するのは、同じく可能性の一つではあるでしょうけれど、多少の飛躍を感じます。
「筑紫から任那は二千余里。北の方が海に隔てられ、新羅の西南」という解釈の方が漢文として自然に感じます。
漢文の原文で書くと読点がなく「任那者去筑紫國二千餘里北阻海以在鶏林之西南」です。
これに、平安の注釈者が「北」の前に読点をいれてしまったために、そうとられているのでしょうが、本来は、「任那者、去筑紫國、二千餘里北阻海、以在鶏林之西南」でないと、筑紫からどの方向に二千餘里行くのか書いてないことになります。
本来なら「任那者去筑紫國北阻海二千餘里」と読むのでしょう。「任那は筑紫を去ること、北へ海を阻てて二千里あまり。」
この文の著者は、筑紫からの任那の位置を説明しているので、筑紫からの任那の方角を書かずに、任那のどの方角が海に面しているかを書く理由はないです。位置情報は「女王國東渡海千餘里」と同じで、始点からの方向と距離が必要です。
@@buluemoon2008 > 筑紫からどの方向に二千餘里行く、始点からの方向と距離が必要
新羅の西南、と書いてある時点で方角は既に示されています。
神功皇后の三韓征伐は百済、新羅、高句麗と思っている人がいますが、辰韓、馬韓、弁韓の頃なので、紀元前1世紀から2世紀のことかもしれない。(私の妄想です)
(22:30)清寧 顕宗 仁賢 武烈 の天皇たちが『明らかに後世に創作された人物とされている』これちょっと初耳ですが。そこまで決定的なんでしょうか?
そうですね創作だと言う学説があるという程度のはずです。明らかにというのは偏見ですね
欠史八代と同様に意図的な物を感じますね。
この4人の天皇の墓の位置は記載があるんですよ、そして墓も存在する。天皇の墓ですよ前方後円墳でそれなりの大きさがあります。
創作した天皇の墓にそれだけの労力をかけますかね?それも4人も・・・・
現在の学者は記載が少ないものはいなかったことにし、証拠がないからと仁徳天皇陵も名前を変えた。
聖徳太子ですら教科書では名前が変わっている。(今はもどってるのかな?)
初代神武天皇でさえ、神話の人物だと言っていた時代がありますから、今でも教科書に神話は入れるべきでないと言う人もいます。
天孫降臨とかは別にして、神武天皇は実在していますからね。 そうしないと魏志倭人伝、日本書記、古事記などの整合性がなくなります。
邪馬台国は存在すると言ってるのに、神武天皇はいないと言うのは遺跡などから考えるとありえないんですよ。
日本書記と古事記には卑弥呼は登場しない、当然ですよ勢力が違うんですから。
邪馬台国九州説だと全てに辻褄が合うんです。考古学的にもね^^
ruclips.net/video/hMDQ5qjoKuI/видео.html
ruclips.net/video/xYHAUFidIe0/видео.html
この二つの動画を観てください。 全て正しいとは思いませんが参考にはなると思いますよ。
この動画には関係ありませんが学者というものは答えありきか否定から研究をしてるように思う代表的なことです。
朝鮮の前は高麗です。高麗の前は高句麗です。高句麗は中国の魏の楽浪郡から別れた国家です。魏の楽浪郡は魏の一地方でしたので、楽浪郡の王は曹操と曹丕です。そうあの三国志の魏の曹操です。ですので、高句麗となる直前の楽浪郡時代の王は中国の魏の曹操や曹丕ということです。
@@japansafer6861 それ何か関係あります?
@@yukizokin 日本の文化遺産に便乗してこないように、しっかりと大陸の方の流れも日本人として把握しておく必要があります。
分かりやすいお話し有り難うございます。「先進文化」のところは不同意ですが。
ソウルから南西に五世紀末に14基の古墳を北九州の王が作っていますその件もお願いします。
韓国にある前方後円墳ですよね
たしか前方後円墳は大和朝廷の支配領域に建てられてたと思います
任那日本部説は日韓共同研究で2010年無しになりました。
百済の先進文化が果たして何なのか具体的に見えてきません。
倭国と大和国は別の国だったと思う。
倭国は九州と朝鮮南部の国で、大和は本州、四国あたりの国。
明時代に作られた中国の地図には九州を倭 本州を日本 って書いてあったと思います
倭国と邪馬台(大和)国を敢えてわけて書いてる点も疑問ですね。ヤマトは奈良盆地にあった王朝で、九州にあった倭国を併合したと考えるのが自然だと思います。倭へ与えられた金印が北九州で見つかったことや、奈良が古代よりヤマト国と呼ばれていたことも有力な情報ですね。倭よりも東側に位置するヤマト国が日本と名乗るのも辻褄が合いますし。
陸の上の国境と言うのが日本人には分からないと言うのがよく分かった。
可哀想な北の国民❕
援助しても、搾取されるだけで末端まで行かない!
この世の地獄を解放出来るのだろうか?
仮に😅金官伽耶国の王が中臣氏なら、藤原氏が日本の中枢に影響力を及ぼしてある意味乗っ取ろうとしたのは、意趣返しだったのかも知れない😭🙏
宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。
歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊らは述べている。
西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。
額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。
「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。
「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。
「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。
ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。
京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。
学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。
「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。
「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。
実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。
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こいつの主張って、日韓の学会でも相手にされていなくて、結局主張派にもなれていないんだよね
高野新笠なんて、武寧王から8代、200年も隔たりあって、ずっと日本で日本人として混血してて、そりゃもう日本人だよ。
仮にちょんまげの時代に一人か二人外人の血が入ってたとしても、そんなの日本人だろ?
一つの疑問がある。8世紀9世紀の遣唐使の時代でさえ海を渡るのは命懸けだった。数隻の船を出し、そのうちの何隻かが海を渡ることが出来たらよしとしていたと。
そのもっと古い400年前に軍勢など送ることが出来たのか?
「権益」という言葉を盛んに使っておられるが、「権益」とは近代以降における概念で古代にそのような概念が存在したかというのは大いに疑問である。まだ国家というものが確立していなかった古代においては、いかにも不釣り合いな言葉だと思うのだが。
古代から大陸半島とは頻繁に往来があった事は文献史跡から明白です
半島への航海はそんなに危険じゃないでしょ。
半島避けて隋唐に渡ろうとするから命懸けになった。
遣唐使は正月の朝賀の儀式に間に合うように日本を出たので、台風のような暴風雨にあう機会が多かった。しかし、季節を選べば安全だったと思います。また、三国志の時代、遼東半島の公孫氏は呉に大軍の派遣を要請しているので、東シナ海は普通に航行できたと思います。呉の滅亡時(280年)は5000隻の船があったとされます。それに、最近のDNA解析をみると、古墳時代のはじめには、中国本土から畿内へ数万から数十万単位の人が日本にやってきたと思われます。(たぶん呉の滅亡時に。)これだけの数の人が、丸木舟でやってきたわけではないでしょうから、乗ってきた船の技術も伝わったでしょう。
畿内&奈良平野→百済系
渡来氏族→ヤマト政権中心。
北部九州→新羅系渡来
氏族→倭の五王応神天皇、磐井の反乱、天武天皇。
北関東→高句麗系渡来氏族→騎馬武人。
新羅→出雲系 昔脱解は但馬出身
加羅→大和系
百済→扶余系 定住化した元騎馬民族。大和に服属し、先進農法を学ぶ。前方後円墳はその証拠。水田開拓残土を古墳に利用。倭人と混血。
渡来人→出戻り倭人。
くたらき を 和訳
百済が、大和政権に任那の割譲を要請したことから、任那は日本の植民地だったのですね。
宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。
歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊らは述べている。
西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。
額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。
「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。
「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。
「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。
ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。
京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。
学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。
「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。
「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。
実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。
資料が無いと言うことなのでよく分からんけど、近畿中央政権時代でも、九州地域と同様な対応など、朝鮮半島とも交流があったのでしょう。 例えば、韓国の学者が唱える日本国の文化は、全て朝鮮半島から来た、と云う。 しかし、日本国に点在する前方後円墳は、朝鮮には一つしかなく、それも日本国からの伝承と、現在では、云われてますよね。 何処の他国にも存在しない前方後円墳、文化の伝承は本当に全て、大陸から来たのでしょうか。 疑問です。
倭と大和は別種。
大和を構成するのは扶余(扶餘)氏…
倭国王統の構成は天(阿海)の三族…
金氏、昔氏、朴氏…
扶余は馬韓(箕子)を追いやり百済王になり、辰韓王統も百済が攻略し17代目から扶余にすり替わり弁韓の金氏は倭の宗主として移住し筑紫君になります。
この時代畿内にヤマト政権が強大であったと云う根拠ありますか。倭の五王は北部九州筑紫(後の筑紫君磐井)ではないのですか。ヤマト政権内のゴタゴタの時期に宋へ朝貢などできなかったのではないですか。
宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。
歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊らは述べている。
西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。
額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。
「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。
「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。
「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。
ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。
京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。
学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。
「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。
「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。
実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。
倭の五王は百済王ですよ
宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]
「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]
「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]
「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]
「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
先進先進と連呼してるように聞こえたがどういう部分が先進だったのか気になるな。任那に橋頭堡がある倭国に対してどれだけ先進だったのか。任那と百済でそれほど違いがあったのか。当時の仏教だけを持って先進って言うのは言い過ぎではないのかな。
日本と朝鮮半島の話しになると必ず、朝鮮半島が日本に対して経済・文化的に優位だったということを認めたくない人が現れるな。動画ろくに見てないでしょ。仏教だけをもって先進的なんて言ってないんだけど。
今はそうだけど、昔は違った。
当事の仏教はただの宗教ではない。今でいう科学体系全般。最新物理学であり、最新化学。
大和は暖かく、水田稲作適合地で人口が桁違い。健康な男児の数が違い軍事的には半島を圧倒していた。
その力量は前方後円墳の巨大さから明白。凄まじい労働人口。寒冷な当事の世界でトップレベルの豊かさだった。
江戸時代は世界人口の10人に一人は日本人だったというが、おそらく当事も世界人口の10人に一人は倭人っていうレベルだったと思う。
でも知的文化レベル、特に科学体系では劣っていたと思う。江戸がヨーロッパより遅れていたように。
この時代の人口比は簡単には決めつけられない。
半島は土地が痩せ気味で森林の再生力が弱く、縄文中期〜後期の遺構がほとんど出てこないほど人口が減ったのは確かだが、灌漑技術が未熟な状態では稲作には大きな谷筋を持つ半島の方が適していたかもしれない。
ただ採集などもしていたので、倭国の方が人口的優位から軍事力優位があったと思われる。
(その後、鉄生産の拡大で半島は禿げ山だらけになり保水力低下)
ゲノム革命(ミトコンドリアDNA分析から核DNA分析の時代になった)により、日本人は縄文人と弥生人の二重構造では無くプラス古墳時代の大量流入による三重構造(縄文人20%、弥生人30%、古墳時代50%)だという事が分かった。
不思議なのは、半島や漢民族とはDNA的に遠い事。
古墳時代に流入した民族は他では駆逐された事になる。
どこから来たのか?駆逐される程の史実を裏付ける資料は?
鉄の生産が盛んになると半島は禿げ山だらけになり日本への移住が進むけれども、それだけでは説明出来ない。
>不思議なのは、半島や漢民族とはDNA的に遠い事。
>古墳時代に流入した民族は他では駆逐された事になる。
この古墳時代の渡来人は中国本土南部の東アジアのDNAに近い。逆に、弥生時代の渡来人は北東アジアの人と近い。
古墳時代の渡来人と混血した人の日本における分布をみると、畿内が一番濃く、そこから地方に広がっている。したがって、古墳時代の渡来人は中国南部から(たぶん呉の滅亡(280)で)黒潮に乗って来て直接畿内に流入した人々。弥生系の血が濃い人は、畿内の勢力でない九州と東北方面に残った。なので、古墳時代の渡来人が九州や朝鮮にいないのは、朝鮮経由で入っていないだけで、駆逐されたわけではない。4世紀になると、この混血した畿内の人々が、北九州の勢力を吸収し、鉄を求めて朝鮮に乗り出していく。沖之島の祭祀がはじまったのもこのころ。
また、古墳人(古墳時代の渡来人)の日本における分布は、纏向の地方系土器の分布と重なる。(九州の土器は纏向ではほぼ出ていない) 初めに九州に亡命しなかったのは、九州は魏(晋)と同盟状態だったから。
この辺は歴史と考えるより8世紀に創られた神話だと思ってた方がいいな、どこまでが事実なのか判別が付かない。
その通り、精度を上げるなら現代の半島韓国系統を観察する事かな?半島を持ち上げる説が出てきても嘘のがすぐ分かる。
왜 쿠다라어 연구 어근 연구가 필요하다. 전라도 사투리 카사이벤, 황해 지중해 정복왕 로마쿠다라 제국 라틴어 쿠다라어 어디에. 있나 남았나 사라졌나?
倭国という言い方自体がシナ朝鮮から見た蔑称でしかない。
大陸の先進文化というのもすでに事実誤認ではないですかね。
代替の国名がないから仕方ないんじゃないか
ヤマトと同じ国かはわからんし
大陸の先進文化が事実誤認というのはどういう意味?
歴史知らない?
3世紀ごろに三韓があった?違いますね、この時期三韓は既に百済、新羅、伽耶によってそれぞれ吸収されたんですけど、なんか勘違いしてますかね、
定義によるとおもいますが、Wiki によれば三韓はそれぞれ3世紀まで。弁韓辰韓馬韓それぞれでは4世紀にかけて存在したとなっています。
帝国書院の「中学生の歴史」でも、3-4世紀ごろ高句麗が朝鮮半島北部に広がり、南部の小国がまとまり百済新羅が成立とあるので問題ないのでは。
高句麗は朝鮮半島も支配しているのと、あとから来た日本が支配する任那は朝鮮の国に含まれるかはっきりしないので朝鮮の国は3カ国だから3カ国に分断された朝鮮を略して三韓じゃないんですか?あまり詳しくないのですが知識をつけるために聞いてみました。
見てきたんけ?
百済、新羅、伽耶は4世紀ですよ🧐
無知過ぎ😭😭
2세기경 고대대한민국 가야 백제인이 일본에 건너가 일본건국! 고대가야 백제유적이 일본의 고대고분에 있슴에 일본건국설의 증명자료이죠 ...
何を言っても、百済は日本に吸収され新羅は滅びた。高麗朝鮮は中華の国で、半数の一般人は奴隷土着人。
任那日本府は無いと思うけど
ある!と思います
あったと言われていますね、ただその役割に諸説あると言うことです。 伽耶を治めていたと言う説と出先機関(大使館)というようなものがあります。
他にも色々説はあります。任那日本府と正確に出てくるのは新羅の史書だけですけど。他は違う呼び名ですね。
朝鮮半島南部に倭人の基盤があったことは事実ですが、多分ヤマト側にも百済側にも属して無いんじゃ無いですかね その背景を朝廷が利用して、後から物語を作ったんじゃ無いかなぁ
@@RR-pm8ie てかさぁ任那日本府やら百済やらどうたらこうたらは置いといて
かなり友好的な関係だったのは間違いないと思うんだよね
1番近い外国
@@mm-lg7wq
それは間違いないですね
鉄資源確保とか、百済新羅との外交などで、伽耶はめちゃくちゃ重要な場所だったと思います。
別に半島勉強せんでも😅
朝鮮の前は高麗です。高麗の前は高句麗です。高句麗は中国の魏の楽浪郡から別れた国家です。魏の楽浪郡は魏の一地方でしたので、楽浪郡の王は曹操と曹丕です。そうあの三国志の魏の曹操です。ですので、高句麗となる直前の楽浪郡時代の王は中国の魏の曹操や曹丕ということです。
@@japansafer6861
別に半島勉強せんでも…😮💨
일본왕가의 고향은 경상남도 김해시 과거 금관가야 임나라 불러던 곳이다 구지봉이라는 곳이 금관가야 와 6가야 왕이 강림한 곳이다
규슈에도 구지후루다케 가 있다고 들었다 일본왕가는 가야인이다
新羅の3王系朴氏・昔氏・金氏のうち、昔氏の始祖伝説では倭国の女王が卵を産んでそこから生まれた。
朴氏は生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がありますね😊